千雨と蟻と小銃と 39-2


 勢いがつきすぎた椅子が倒れ、盛大に音を立てた。ただでさえ注目を浴びていたのに、これで食堂にいる署員全員が自分を見ているのが嫌でもわかる。厨房からも視線が飛んできていた。
 だが、小島にそんな雑事を気にしている余裕はない。数多の視線の中で一瞬、強烈な視線を放った火村の精察に忙しいのだ。
 今は表情を戻しているが、椅子を倒した瞬間「こいつは」と物語ったのは見間違いでは無いはず。すると、自分の中に降って湧いた内密の話があるという予想が的中したことの証明として良いはずだ。彼は一体自分にどんな話があるのだろうか。途端、脳裡に最悪の事態がちらつき出す。
「小島、課長がお呼びだ」
 数秒間の沈黙の後、火村が切り出した。周りからの視線にある感情が交ざり出すのを敏感に感じて小島は激昂しそうになる。勢いよく飛び上がったのはまたなにかやったからだ、と思ったに違いない。口にこそしないが土屋は呆れ顔をしている。他の面子もそんな顔をしているのだろう。
(どうしてそういう方向で納得するのかな。ちょっと気合いが入りすぎただけなんだから)
 もうちょっと刑事としての勘を磨いて、ここは二人の間にある確執とか、そう言うのを想像して欲しかったが、これが自業自得というものなのだろう。
(そもそも、忙しなく動く回っている火村さんを小間使いになんかするはずがないじゃ無い)
 と文句を言いつつ、それはつまり、ここにいる人間は火村の裏の顔を知らないと言う裏打ちになる。なった所で何も意味は無いのだが、
(でもこれで本当に課長が呼んでるだけだったら、私が困るんだけど)
 なんかもう色々覚悟とかしている。課長に呼び出しを喰らう理由は身に覚えがない。
 それでも、ここで火村と見つめ合ってもなにも事態は進展しない。ペースは自分が握っている筈だ。考え込んでいるとスタートダッシュで引き離した不安感が追いついてしまう。
「わかりました。すぐ行きます」
 隣の椅子に掛けてあった上着を取ろうとして、手が止まる。火村がちらりと視線をテーブルの上のカレーライスに向けたからだ、そして腕時計を見て、
「いやそれほど急ぐ必要もないらしい。捜査会議までに間に合えばいい。だから食事を終えてからでも良いぞ」
 そう言うと火村は食堂を出て行こうとした。
「いえ、今すぐ行きます」
 ただでさえ食欲を失っているのに、ここに残されたら、深読みし始めてしまう。やるべき事は決まっているのだ。彼の相手は当たって砕けろ位が丁度良い。相手は自分の想像を超えている存在なのだから。
 そうなると、皿の上に丸々残っているカレーライスが邪魔になるのだが、自分を見上げる土屋が丁度、視界に入った。
「土屋さんなら、もう一品ぐらい増えても大丈夫ですよね」 
 細身の土屋は大食いでも何でもない。定食一つで満腹になる。
「へ、いえ、む……」
 このままでは断られる。そんな返事は望んでいない。だから小島は間髪入れず、
「はい、食べかけですけど、どうぞ」
 と言ってトレイごとカレーライスを土屋の方に押しつけた。そして、無駄のない動きで上着を手に取ると、足早に火村を追い掛ける。
 火村はすでに食堂の敷居を越えていた。食事処で埃の立つような事をするのは気が引けるが、小島は走って火村を追った。
 しかし、背後から土屋の困惑の混ざった声が先に追いつく。小島は右から左に素通りさせる。
 食堂を抜けると、すぐ火村に追いついた。彼の歩くスピードがいつもよりゆっくりに思えた。横に並ぶとちらりと火村が視線を投げ掛けてきたが、口が開くことはなかった。
 数瞬、顔を見合わせたまま廊下を歩く。先に視線を外したのは火村の方だったが、このやり取りは失敗したかもしれない。
(うわぁ)
 自分がみるみる緊張していくのが嫌でもわかる。いつの間にか握っていた手には汗をかき始めていた。彼との密議が自分に取ってプラスに働くか、マイナスに働くのか、思考の隅で考え始めている。
 見る見る間に頭の中が占有されていく。当たって砕けろ、と考えたばかりなのに、ぐるぐると頭の中を巡っている。駄目だとわかっていても進行を止められず、火村の用件が何なのかで頭の中が一杯になった。
 こうなっては小島はどうすることも出来ない。
 どんな用件があって呼び出したのだろう。ここ数日の別行動を鑑みても彼が多忙な身なのは明白だ。自分にかまけている時間などないはず、それなの時間を割かなければいけない理由は……。
 真っ先に浮かんだのは、新見の友人という内藤の事だった。それは心に留めていた方が良いかもしれない。あきらかに踏み込みすぎている、と自覚している。
 だったら、その忠告の為か。それで済むのか。わざわざ呼び出してまでする必要は無いと思う。自分が新見に接触して色々聞いているのは、彼も知っている事だ。その忠告にどれほどの効力があるかわからないが、わざわざ時間を注意する作らなくても、一言、さりげなく囁けばいい。こうして考えてしまっている以上、効果はそれ相応にあるだろう。
 するとやはり、目に余っていきなり厳罰が下されるのか。だったらこのまま着いていってしまっては不味いことになる。だからと言って逃げ切る方法は考えつかない。
(駄目だ)
 火村に悟られないように気持ち頭を振って、思考をクリアにする。荒唐無稽とは言い切れないが、根拠はない。彼が食堂に足を踏み入れたときどう考えた。自分になにか用があってきた、事件の核心に触れるものだと判断したのではないか。なのにこう消極的な事ばかり考えてしまうのはやっぱり、
(カレーを食べる時間なんか与えるから)
 忙しいんじゃないのか。と半ば八つ当たり気味に火村を睨み付けて、ハッとなった。
(まさか……本当に課長が呼んでいるだけだったりして)
 たまたま部屋を出ようとしていた火村に伝言を頼んだ。あり得るかもしれない。しかし、用事のついでと、だからといってこうして歩幅を合わせるようにして横を一緒に歩く理由はない。なにかちょっとした話があるだけにしてもずっと無言だ。廊下を歩きながら出来る話では無いのだろう。
(やっぱり火村さんが私に用事があるのは間違いないわよね)
 小島は、思惟が支離滅裂になってきているのに気付いていなかった。願望から無理矢理、彼が自分に話があると結論付けている事に気付いていない。そして、無駄にカロリーを消費するだけ頭脳労働を続け、だったらなんだろう。と始めた瞬間、壁にぶつかったような違和感を憶えた。
 うん? と顔を上げるも、がくんと視界が宙を舞った。床がない。視界にはせりあがってくる階段。足を踏み外したと気付けたが、受け身を取るとかそんな事は頭の中に存在しなかった。もう目の前にある階段で、思わず目を硬く瞑る。
 痛みは襲ってこなかった。ゆっくりと目を開けると、目と鼻の先で激突は免れていた。
「階段から転げ落ちるとか勘弁してくれ」
 と耳に届くと内臓を置き忘れるぐらい力強く、ぐっと後に引っ張られた。痛いぐらいに掴まれた左手首、火村が呆れていた。
「すみません」
 小島が頭を下げると火村は手を離し、
「足元はちゃんと見て歩け」
 いい大人に対して言う言葉ではない。注意する火村も困り果てている。その通りで小島は低頭する以外なかった。
 嘆息すると火村が先を歩き出す。その背を見ながら小島も階段を下りたが、足元が覚束ない。一歩、一歩、足元をよく見て歩くが、どうにも勝手が違った。
 それでもどうにか階段を下り続ける。そうして無言のまま、誰ともすれ違わず、自分達の部屋がある階で折れた。
 一歩フロアに足を踏み入れると、小島はうなじの辺りがピリピリと帯電したように感じた。あきらかにこの階の空気は違っていた。捜査本部の置かれた大会議場ならおかしくないが、この階にはない。見慣れた景色なのに、なにかが違っている。異物が混入して見えるものがなにもかも違って見えた。
(これはいよいよ持ってピンチかもしれない)
 と心中で零す。できる限り軽い口調で。しかし、ゴクリと喉が鳴り、それはやけに響いて聞こえた。
 どんな話が火村の口からなされるのか。情報を引き出そうにも彼は無言を貫き、先を歩いている。その後ろ姿は話しかけられる雰囲気ではない。敢えてそういう空気を作っている節があった。
 喉が渇いてくる。この空気の原因を探して目が泳いでしまう。
 不意に、俯瞰したように自分の姿が見えた。落ち着かずキョロキョロしている。こんな挙動不審になっている人間には憶えがあった。
 いまの自分を傍から見たら、バックヤードに連れて行かれる万引きした中学生と見間違えるかもしれない。そんな事をするようには見えないのに、なにか魔が差したのだろうか。現行犯で捕まえられ、これから自分はどうなるのか、転落の憂き目、これからの人生を想像して、落ち着かなくなっているのに似ている。
(それはまずい)
 自分は大人だ。中学生の様にやり直しは簡単には出来ない。
(だめだめ、気を強く持たないと)
 頭を振り振りしていると、喫煙コーナーが目に入った。缶コーヒー片手に煙草を吸う捜査員。考え事をしているのか、こちらの奇行に気付いていない。それどころか咥えたままの煙草は今にも灰がこぼれ落ちそうだった。
 その少し先では周囲を気にしつつ小声で電話を掛けている捜査員がいる。二人とも麻帆良署の署員ではない。誰も彼も見覚えのない顔だ。わざわざこのフロアを利用する必要はない。使ってはいけないルールもないので、ただの偏見かもしれないが、どうにも違和感を憶える。
 小島はすれ違い様に自分達に背を向けて電話をする捜査員に注目した。どういった話をしているのかは、表情から想像がつく。捜査が長引けば割とよく見受けられる風景だった。
 聞き耳を立てると、やはり奥さんと電話しているようだった。理解がないと警察官のパートナーは厳しいものがある。その辺、皆身に染みているのか、ちょっとでも同僚と噂が立つと、周りがなにかと世話を焼くものだ。自分にはまだ経験はないが、いい年をしてくると、頼んでもないのにお見合いの話を持ってくることもあるという。
 そんな極々ありふれた風景。日常的な光景なのに、小島の嗅覚は彼からある種、独特な、この街ならではの臭いを嗅ぎ取ってしまった。
 電話越しに低頭し、奥さんに申し訳なくしている、それは本心からだろう。心の底から謝ってもいるが、意識の一部が自分に向いているせいで、真剣みが足りていない。
(この人って、やっぱりそうなの。じゃあ)
 このフロアに漂う空気の原因は彼らから。小島は肩越しに振り返ると、慌てて吸い殻入れに煙草を捨てた捜査員と目が合った。ばつが悪そうだ。ただそれはズボンを盛大に灰で汚したせいのようで……、彼は苦笑いを作ると、灰を片付けだす。そんな彼には安堵が漏れそうになった。小島は目礼で返し、前に向き直り、平静を装う。
(どういうこと?)
 やっぱり何かおかしい。違和感がある。電話中の彼だけが特殊なのか。
 そうなってくると、廊下の先が嫌でも目につく。バラバラの班の捜査員達が四人も集まっている。どうも情報交換をしているようだ。これはまず見られない光景だった。なにが手柄に繋がるかわからない、そんなネタを捜査会議でもないこんな所で開帳することはまずない。ただこの事件はどういった捜査手法をとっても碌な情報を持って帰ってくることは出来ない。皆同じような状況なので功績を気にする必要がないのでついつい口が軽くなっているだけかもしれないが。
(二人ほど私を見ている?)
 誰も自分の方を向いていない。ただそれでも意識だけがこちらを向いているように感じる。過剰に反応しているだけなのか。
 仕切り直したい。小島は丁度自分達の部署に差し掛かったので、逃げるように中に入ろうとした。しかし、その足が止まる。
 誰もいない。ものけの空だった。人っ子一人いやしない。まるで人払いしたように誰もいなくなっている。
(どういうことなの? まだ捜査から戻ってきていないだけにしても)
 離島に陣取る課長までいない。頭の片隅で、この際、課長のお小言でもいい、と思い始めていた。足を止めて自分を凝視する火村が嫌と言うほど分かってしまう。
「こっちだ」
 もう彼が嘘を言っているのは分かっていた。それでも着いていくしかなかった。いまだ電話をかけ続ける捜査員の意識が自分の動きに合わせて動くのを感じとってしまうから、退路は断たれている。
 四人の捜査員の横通り過ぎるとき、四人の筈なのに三人に思えた。
 そして、取調室の前に来た。
「入れ」
 火村がそう言って、取調室のドアを開けた。勿論、課長が中にいるなんてことはなかった。



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