千雨と蟻と小銃と 39-1


 ぐちゃぐちゃとカレーのルーとライスをスプーンでかき混ぜる。力が入りすぎているのか、皿に当たってカンカンと無闇に大きな音を立て、その度、近くの席でうどんを食べていた年配の署員が眉尻を小刻みに震えさせた。
 彼は我慢するつもりだった。しかし残り後一口と行った所で堪忍袋の緒が切れた。うどんを口に運ぼうとしていた手を止める。
「おい、食べ物で遊ぶな!」
 だが、注意された当人はまだ上の空で、整地作業を淡々と続ける始末。ベテラン刑事は目尻を吊り上げ、叩き付けるように箸を置いた。
「小島、聞こえてないのか!!」
「小島さん、小島さん」
 そのやり取りを見かねた若い鑑識官が身を乗り出し、小島の肩を叩く。
「え? あ、はい。土屋さん、なんですか」
 生返事を返すと、土屋は苦笑いして、あっちと目配せした。すると少年課のベテラン刑事が険しい顔をして、
「食べ物で遊ぶな」
 と言った。小島が彼の視線を辿る。そのあまりの惨劇に顔から色が消える。
 カレーはかき混ぜる派ではない。なのにどうしてこんなことになってしまったのか。やり場のないエネルギーを早めの夕食にと選んだカレーにぶつけてしまったらしい。どれだけの時間、こねくり回していたのか、具も無惨な姿を晒すことが出来ない程に跡形がない。食事なら食事と集中するべきだったと反省する。席に着いた当たりから記憶がない。ずっと昼間の出来事を思い返していた。
「すみません」
 小島が素直に頭を下げる。ベテラン刑事は頷き、残りのうどんを啜り出す。小島もさっさと食べてしまおうとしたが、どうにも手が伸びない。それでもどうにか端に退けられ無事だった福神漬けをひとかけら掬い、口に運ぶ。
「ブラウス大丈夫ですか、結構な力入れてカレーを混ぜてましたけど」
 言われて、小島はハッとなった。上着は脱いで横の椅子に掛けている。真っ白なブラウスはキャンバスにはもってこいだ。
 視線を下げると、スプーンを落としそうになった。綺麗にルーがコーティングされたご飯粒が二つ、健気に張り付いている。
「染みが広がるから取るだけで拭き取ろうとしない方がいいですよ」
 土屋に同意し、小島が紙ナプキンと手に取る。飯粒を他の場所につけないように丁寧に引き剥がし、被害を吟味。一見すれば分からないだろう。上着を着れば隠れる。着替えもロッカーに多めに持ち込んでいるので着替えても良い。
(選べる選択肢は多いのはいいんだけど)
 それでも踏んだり蹴ったりだ。食欲も無くすし。
(もう返ろうかな)
 しかし、ご飯で遊ぶなと注意した年配の刑事はまだ食事を終えていない。どんぶりを両手で持って汁を啜っており、このまま一口もつけずに席を立つのは気が引けた。
「大丈夫でしたか?」
 土屋はソースを手に取るとミンチカツにたっぷりと掛けながら言った。
「え、ええっと大丈夫とは言えないかもしれませんけど、着替えはたくさん持ってきているんで」
「そうですか、それにしてもカレーなんて食べて大丈夫ですか?」
「へ?」
 質問の意図が分からない。しかし土屋はたっぷりソースの掛けたミンチカツを頬張り、ご飯を流し込むように口にして続きを語ってくれなかった。
 彼が咀嚼し終わるのを小島はじっと待った。その態度があまりに露骨に出てしまったのか、土屋はゴクリと大きく音を立てて口の中のものを飲み込んだ。そして周囲を見渡すと、耳打ちするように、
「もし今日事件が発生したら……」
 ああ、なるほど、小島は理解した。その心配は無用だ。
「私、最前線から外されていますから」
 言ってからふと違和感を覚えた。警視庁からも捜査員がやって来てくるという異例の捜査態勢。犯人逮捕につながる確率の高い所は、すべて警視庁からやって来た警察官に割り振られている。そんな事は彼も知っているはずだ。
「ああ、そう言えばそうでしたね。事件現場で見掛け――あ、すみません」
 土屋が頭を下げた。それは捜査員としてではなく、いち被害者としてだ。小島は阪井と一緒に警邏中、偶然、事件現場の近くを通りかかって集団失神の当事者の一人になって不覚にも事故を起こしてしまっている。
「阪井さん、もうすぐ定年を迎えるのにこんな事になっちゃって、私は元々色々やっちゃってるんでいいんですけど」
 と笑って見せる。
「それをさらって言えるのが小島さんの凄い所ですよ。積もり積もって内勤に飛ばされていてもおかしくないんですけどね」
 土屋は冗談交じりの笑みを零した。代わりに小島は笑みを消す。確かに始末書はよく書くことになる。ただ懲罰人事で飛ばされるなんて話は耳にしたことはない。
「……あの私ってそんな風に鑑識では話題にされているんですか?」
 土屋はしまったと表情が物語っていた。
「あ、いえ、ちがうんですよ。なんて言うかそのね。小島さんってなにか失敗したらそれを取り返すように手柄をたてるでしょう」
「あの件はお前が犯人を逮捕する予兆だなんて口にする奴もいるぞ」
 お冷やを飲み終えたベテラン捜査官が、じっと前を向いたまま話に割り込んできた。そしてふっと小島を一瞥すると「お先」と言ってトレイを持ち席を立った。
「事件は防げていると言っていいのか分かりませんが、進展がありませんからね。マスコミの報道もあって、いろいろ鬱憤が溜まってきている人が出始めているみたいです」
 この手の凶悪事件はその事件の起こった県にある警察本部が陣頭指揮を当たる。だからと言って所轄署との中が悪くなるということはない。帳場は事件現場の管轄署に置かれ、地元に詳しいそこの署員と組むのが普通だ。しかし今回の事件では地元の警察が爪弾きにされている感がある。その理由を知っている小島は特に考えていなかった。これほどの事件だ。仕方がないのかもしれない。それでも自分達にできる事を全力でしようと言った熱意を持っている。
 がしかし、すでに犯人の素性は割れている。なのに捜査に進展がないとなると、捜査手法に問題があるのではないかと思うのが普通だ。それを決めているのは警察組織のトップに位置する警視庁。上意下達が胸の警察官といえど、不満を顕著にする者が出てくるのは自然な事だろう。ここ麻帆良は犯罪発生率の低い、それに貢献してきたという自負があるので、殊更だ。
「上は上でピリピリしてますし、気が重いですよ。街に設置されている防犯カメラの映像を調べていたんですけど、犯人の行方に繋がるような有力な情報はありませんでしたし」
 彼がこの後行われる捜査会議で報告するのだろうか。慰めの一つでも口にするべきなのだろう。しかし小島はなにも返せなかった。例えあったとしてもそれを土屋が目にすることはないと思うと、小島の顔に影が差した。
「どうしました」
「あ、いえ、なにも、じゃあ私ってそんな期待されているんですか?」
「期待なんですかね」
 よく分かりませんと、土屋は千切りキャベツを頬張り、会話が途切れた。
(予兆……)
 ベテラン刑事の何とも言えない表情を思い返しながら小島は口の中で呟き、横の椅子に掛けた上着を見た。ポケットにはならない携帯電話が入っている。
 もし本当にそんな事になったら、自分はどうするべきなのか。
 犬丸宏の口から事件の真相を語られては不味い勢力が存在する。その力は絶大で自分達警察内部まで影響力を持っていた。相手は記憶の操作までできる。真実が明るみに出る※ことはないだろう。そうするとこのまま犬丸宏は……、そしてその家族は……。
 脳裡に父の行方を捜して、やって来た優子の顔が思い浮かぶ。連日の過熱報道の餌食に彼女とその家族はなっている。上司に掛け合って、報道の自粛を促して貰ってはいるが、今のところ効果は出ていない。
 小島はもう一度携帯電話の入っている上着のポケットを見た。電話を待っている。メールでもいい。しかし待っているが……今返信があったとして自分に何が出来るだろうか、と考えてしまう。出来てもただ慰めることだけだ。たとえ父親の凶行をなにかの間違いだ。なにか理由があるに違いないと口にしても信じて貰えないだろう。凄惨な殺人を犯したのは犬丸宏で、これは変わりようがない事実だ。
(現状無実にはならない)
 いろいろな情報が世間に出てしまった。それは優子の耳にも入っている。だから電話もかかってこない。取りもしない。きっと彼女は自分に期待もしていない。諦めてしまっている。
(そんな状況で私が検挙したら)
 自分が優子にとどめを刺す事になる。これ以上の罪を重ねさせずに済んだと感謝されるだろうか。この事件の真実を一切明るみにしないまま……。
 犬丸宏はどこにでもいるサラリーマンだ。周辺関係者から証言からもこんな猟奇事件を起こせるような人物ではないのはハッキリしている。ましてあんな特殊な技能の持ち主でもない。この事件には黒幕がいる。その存在を明るみにし、彼も被害者だと言うことを証明できれば、
(その為にはその黒幕の特殊性を証明する事が必須になる)
 それは強大組織との闘争を意味する。警視庁との異例の合同捜査。主権もあちらにある。これに許可を出したのは警視庁のトップではないはずだ。そんな事が出来る人物はあとは数えるほどしかいない。つまりこれは国家ぐるみ。常時こんな力を使えるなら官僚の汚職や、大臣のスキャンダルなんて世間に出ないだろう。それほどに本気なのだ。ここで敵対すれば全力で潰しに来るだろう。その一例を小島は知っている。
(どうすれば)
 この件を知っている阪井のスタンスは現状維持、それに追従できない自分がいる。なら新見に協力するかというと、それもまた違う気がする。彼のやり方は乱暴だと思う。
 警察官だからだろうか。自分が言えた義理ではないような気がするが、正しい手順を踏むべきだと思う。もし何かを変えたければ変えられるだけの地位に就かなければいけない。もしくはその為の仲間を募る必要があると思う。
 こんなやり方で彼の目論見が成功して魔法が世間一般に知れ渡ったら、その後どうなるのだろう。そんな未来を思い描けるほどの知識も想像力もなかった。
 小島はお冷やを手に取ると、口に含んだ。胃にじくりと響き、眉を顰める。
 どうにか表情を戻して顔を上げると土屋が横を向いていた。視線を追うとベテラン刑事が出口付近で立ち止まっているのが見える。二人の視線は同じ者に向けられていた。
 小島も少し上目遣いでそれを見た。天井から吊されたテレビ。流されているのは夕方の情報番組だった。BGM代わりぐらいにしか認識していなかったが、
番組の司会者がアップで映っている。彼が口にしているのは今まさに自分が直面している問題についてだった。そして誰かの名前を呼んだ。
 捜査本部の置かれている麻帆良署の前、報道記者が手にマイクを持ち、神妙な表情で、捜査の進展、今夜の事件予想等々、スタジオの声に応えていく。
「僕達が持っている情報とマスコミの持っている情報に差異がないというのは堪えますね」
 土屋が苦々しい表情で零した。むしろ今回の事件はマスコミの方が情報を得るのが早い。後手後手に回る警察として、記者会見で、釣り仕上げを喰らったお偉方は強張ったまま顔から色を喪失させた。彼らが真相を知り得る地位にいるかどうかは知らないが、捜査会議での檄の飛び方も日に日に増している。
 画面が変わった。今度は東京にある一軒家。カーテンが閉め切られ、人の気配がない。どこか別の場所に移ったとは聞いていないので、家の中でじっと息を殺し、時が過ぎるのを待っているのだろう。
(こういう事がないようにしてほしいって言ったのに)
 矛先が警察にだけ向かないための心算なのか。いやと小島は思い直す。被疑者家族と顔見知りになって、感情的になっている。これはなにも憶測だけで行われているのではない。被疑者が割れた時点でこの手の報道はどんな事件でもよく見られるものだ。自宅周辺で被疑者の人物像なりを聞くのは普通に行われている。
(真実をなにも知らないのに見世物にされるのは)
 事実を知れば世間の目も変わるだろう。限りなく現状を維持しつつ、それでいて犬丸宏とその家族をどうにか助けられれば、
(その為になにかいい方法はないのかしら……)
 気配がした。視線が食堂の入り口に釘付けになる。ベテラン刑事の横を通り抜け、食券も買わずにこちらに向かってくる捜査の裏で暗躍する魔法使い。
 対決の時。小島はそう思った。
 火村が小島の向かいに立つと、テーブルの上、丸々残ったカレーライスに注目する。
 自分に用事があるのだろう。ここでは話すことが出来ない。それも今すぐに。その話の内容は事件の核心に迫る為のものだと予測する。
(願ってもない)
 たしかに予兆だったのかもしれない。小島は気を引き締め、勢いよく席を立った。




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