千雨と蟻と小銃と 38-10


時計の短針は一巡していた。神楽坂明日菜はまだ喫茶店に居る。テーブルの上にはカップとケーキの載った皿がそれぞれ五つあり、その中の一つ、一際存在感を主張するホールのままで鎮座するケーキに視線をやった。
 今度のチョイスはチョコレートケーキだった。青白い蟻が群がっている。その光景は衛生的とは言えず、飲食店としては直ちに駆除したくなるだろう。確証は掴んでないが、このはた迷惑な白蟻の飼い主は長谷川千雨で間違いないと、明日菜は思っている。
そんな千雨の代弁者の登場によって、エリザベート・D・タルボットの身分は保障された。そして自分達の置かれている状況をできる限り事細かく話す事となった。その役目はもっぱら綾瀬夕映に委ねられたが、その際見せたエリザベートの苦々しい顔が忘れられない。査察官に見事してやられた知って、「あのバカ」と呟いた声音は、いまでも耳に残っている。
(そう言えばいつからいたのかしら?)
 全く誰も気付かなかった。目の前のエリザベートも。人語を操る電気蟻アナセスは、いつのまにかカウンターの上に鎮座していた。
「どうしたの?」
 あまりに凝視しすぎていたせいか、アナセスがケーキを貪るのを一時中断し、振り返っている。しかし、声は耳元でした。見ると別の白蟻が肩に乗っていた。黙考するエリザベートを気遣ったのかも知れない。
「って脚!? クリームついてるじゃない!! 染みになったらどうするつもりよ」
 明日菜はそんなアナセスを乱暴に掴み、紙ナプキンをとった所で気付いた。痛いほどの視線の集中砲火に静々と椅子に座る。
「もうちょっと早く出てこられなかったの?」
 声を尖らせ、上着を脱ぐと、クリームを拭き取りつつ、器用にテーブルにおいたアナセスを睨み付ける。
「無茶言わないで欲しいの。ちさめは話が出来る状況じゃないの。死なないようにしつつ、術式を構築するのは凄く集中力がいるらしいの。話しかけただけであなせすの方が殺されるかと思った程なの」
 ケーキを食べていた蟻たちが一斉にやれやれと頭を振った。分かってない。駄目な奴と。
 だが、明日菜はそれを気にしている余裕はなかった。
「死にかけてる?」
「そうなの。素人判断でも死んでないのが不思議なくらいなの。肉屋さんの店頭に産地日本、品種ちさめ、ミンチ、小間切れって札つけて並んでいても違和感ないの」
 寮にある生協の様子が脳裡を駆け抜けた、いつも利用している肉売り場の前に立ったところで、明日菜は意図的に想像をシャットダウンする。自分を見上げるアナセスに悪意が窺えた。しきりにケーキを勧め、なにか腹に入れさせたのもこの為だったのかもしれない。
「ちょっとあんたねぇ」
 と切り出したが、勢いよく椅子をはね除けた夕映のせいで続ける事は出来なかった。彼女はまんまとアナセスの罠に引っ掛かり想像してしまったのだろう。顔は真っ青で、口許を押さえ、トイレに駆け込んだ。
「これぐらいで情けないの」と言ったアナセスは満足げだった。
「ちょっと」
 語気を強めたが、アナセスはどこ吹く風だった。
「それで私の手助けは?」
 エリザベートが黙考を止め、尋ねた。
「要らないの」
「そう。じゃあ夕映ちゃんが戻ってきたら話の続きをしましょうか」
 五分ほどして夕映が戻ってきた。顔はまだ青く若干頬が痩けてやつれて見える。
「どうやら待たせてしまったようで申し訳ありません」
 律儀に頭を下げる夕映に、「どうぞ」とマスターが水の入ったグラスを運んできた。
「あなせす、超アウェーに居るような気分なの」
 誰も何も言わない。ただ白蟻を見つめるだけだった。そうしてアナセスは渋々と言った様相で、「悪ふざけが過ぎたの。悪かったの」と頭を下げると、「いえ」と返事をして夕映が水を口に含んだ。
「じゃあ、そろそろ本題に入りましょうか。その査察官とやらのせいで碌な手がないけど」
 とエリザベートが前置きした。
「貴方たちに関して言えば、見つかってもさほど問題はないと思うわ」
 それは一体どう言う事か、明日菜が驚愕の視線を投げかけると、強制的に魔法界に連れて行かれるなんて事はない、と返ってきた。
「貴方たちなら身の振り方を選択できると思う。それを説明するにはどう鎖国が実施されるか、私なりの考えを教えておいた方がいいわね。鎖国するだけなら簡単な事だけど、魔法使いを向こうに押し込めるなんて乱暴な事が本当に出来るかは未知数だわ。そもそも現実的じゃないのよね。魔法使い全員を魔法界に押し込むなんてことは。なにより、こちらに残りたい魔法使いの意志を無視する訳には行かないはずよ。やり方によっては鎖国政策自体を頓挫させられるかもしれないから」
「そんなこと出来るんですか!?」
 だったらそれを逆手に取れば、と明日菜が身を乗り出したが、
「無理なの」
 アナセスが冷ややかに口調で言った。明日菜はムッとしたが、それを無視してアナセスは続けた。
「それぐらいは鎖国強行派も考えているの」
「そうね。一般人と結婚して、子供が居たりしたら大変でしょう。引き離されることになるかも知れないのだから、そう言ったことを悲壮感を命一杯漂わせて、魔法界側に訴えればそれだけで情勢が変わるかも知れないわね。向こうの住人のほとんどが鎖国になんか興味がないから、それは可哀想だとか同情するものが出てくるのは目に見えているわ。この鎖国は間違いなんじゃないかって、ね。そんなことになると鎖国強行派も考えを改めないと大変な事になるわ。でも彼らだってこんな簡単な事を想定出来ない訳がないわよね?」
 たしかにと明日菜達が頷く。
「だから鎖国強行派は妥協点を用意しているはずよ。私が彼らなら地球を拠点としている魔法使いに選択を迫るわ。魔法使いとして生きるか、普通の人間として生きるかね。普通の人間として生きる事を選んだ場合、魔法に関する記憶の消去。念には念を入れて永久的に魔法を使えないよう魔力の封印を施すと思う。それで各所と調整するはずよ。こうすれば魔法使いを押し込めるのと一緒の効果が期待できるでしょう?」
「そうですね。そうなったらエリザベートさんは、貴方たちプラハの魔法使いはどうするのですか? それに楓さん達なんてそれこそいい迷惑では」
 夕映が聞いた。
「拙者達でござるか……、拙者達は魔法使いではござらぬし」
 魔法使いの集団の一因であるエリザベートに視線が集まる。
「私達はそうね」
 と言って笑うことで返答とした。明日菜はその笑みにぞくっと怖じ気を覚えた。背筋が凍る微笑だった。魔法界の要求など突っぱねる気満々だった。もともと向こうと折り合いの悪いとも明言している。
(身の振り方ね)
 明日菜が魔法と関わったのは二月のことだ。これまでは魔法などなくても何不自由なかった。ネギを魔法使いの標準で考えてしまうせいか、魔法使いは魔法を使わないと生きていけないように思えてしまうが、
(千雨ちゃんなんて二年間ほど魔法使いだと言うことを誰にも悟らせなかった程だもの)
 一年の頃だったか体育の授業で盛大に転んだことがあった。あの時、千雨は膝をすりむいて、痛そうにしていた。彼女ならそんな傷一瞬で治せただろう。それどころか、転んでしまうようなこともなかったはずだ。
(でも、千雨ちゃんも千雨ちゃんだから……そうなのよね、私達って一般的な魔法使いって言うのがどう言うものかよく知らないのよね)
 破天荒とまでは言わないが、自分達の知っている魔法使いは、なにか問題があれば、解決のために遠慮なく魔法を使うイメージがある。開き直った千雨がそうだ。バランスを取るように最近ネギはマシにはなってきたが……
(そう言えばネギも四六時中魔法使ってるんだったわ)
 図書館島に魔導書を探しにいった時、彼は魔力を封印していた。その時の身体能力は決して良いとは言えないお粗末なものだった。彼の年齢に見合わぬ身体能力は魔法の産物だった。
(そうなると魔法使いは軒並み能力が落ちることになるのよね)
「そう言う訳で、見つかっても強制連行はないと思う。だからあんなあからさまに警戒しなくていいと思うわ。もっと楽に、見つかったら見つかった位で、そもそも貴方たちは魔法協会に所属していないのでしょ?」
 明日菜は夕映達と顔を見合わせた。その辺りどうなっているのだろう。分からない所だ。アナセスを見ると彼女は頭を左右に振ったが、
「表立って所属していることにはなっていないと思うの」
「だったら協力なんてしなくてもいいんじゃないかしら、下手に嘘を吐くぐらいなら私が精神防壁を施してあげてもいいしね。そうね。そうしておいて時間を稼ぐってのも手かもね。鎖国が実行されたら、私達が貴方たちを逃がしてあげてもいいわ」
「あのネギ先生はちゃんと魔法学校を出て研修に来ている魔法使いなのですが」
 夕映が言った。
「ネギ君……か。近衛近右衛門が一枚絡んでいるようだし、あのお爺さんがこの程度で下手を討つとは思えないのよね。証拠になりそうなものには先手を打っていると思うわ。ただそれでも読心術者が相手だとなると旗色は悪いかしら、協会員としては捜査に協力しなければいけないでしょうから」
 清廉潔白なら探られても痛い腹なんてないでしょうし、彼らの扱いが困るのよね。とエリザベートが漏らした。
「どうするつもりかしら。足並みを揃えることが出来ればいいのだけど」
 明日菜はテーブルの上に鎮座するアナセスを見た。彼女ならすぐにでも近右衛門と連絡が取れる。
「駄目なの。このえもんはいま席を外しているの。でもその辺りはきっとどうにかすると思うの」
 とアナセスが答えた。まるで自分がどうにかすると言わんばかりに自信に満ちあふれた口調だったので、
「それって千雨ちゃんがするって事?」
 と明日菜は思わず聞き返した。アナセスになにか出来るとは思わなかった。彼女はそういったものでは無いだろう。だが、
「へ? ちさめの名前がどうして出てくるの?」
 その様子に惚けている節はなかった。
「このえもんは鎖国反対派なの。ここで失脚するようなことになれば、鎖国強行派の都合のいい頭に継ぎ代えられるの。だから意地でもどうにかするの。信じられないかも知れないけど、あのじじいは上から数えた方が早いほどのやり手で手練れな魔法使いなの」
「だったら自信満々に紛らわしい言い方してるんじゃないわよ」
「勘違いしたのはそっちなの」
 言い合っている明日菜達を横目に、エリザベートが口を開く。
「具体的に何かをやっているか分かる?」
 アナセスは頭を振り、
「分からないの」
「そう、部外者の私がネギ君共々匿ってしまえば事は簡単なんだけど、それはそれで別問題に発展しそうだし」
「十数人の生徒が姿を消すのは、失踪、ううん、誘拐事件になってしまうの」
「そうよね。だからと言って根回しをすると痕跡が残りすぎるし、雪広さんに頼んで系列病院に緊急入院させて貰うっていうのはどう? あまりに陰惨な事件で体調を崩したとか適当に理由つけて」
 アナセスがぽかんとした。明日菜も同じように呆気にとられた。都合の悪くなった政治家じゃないんだからと思いつつも、状況的には似たようなものだった。それがまかり通れるとは思えない。
「あ、でもわざと足並みを揃えずに、私が貴方たちに術を掛けてしまえばいいんだわ」
「なぜそこで不利になるような事をしようとするの」
 アナセスが困惑している。
「不利かしら? 協会とは関係のない私が魔法を掛けるのよ。この子達から情報が漏れなければ憶測でしか測れなくなる。身内をいくら怪しんで調べてもなにも証拠は出てこないわ。打ち合わせもしてないからボロを出す人間もいないしね。犯人捜しに躍起になってくれれば時間を稼げると思うのよ」
「絶対に魔法が解けないと言い切れるの? 魔法を解くという名目で向こうに連れて行くなんてこともあるかも知れないの。怪しきは罰せずでも、証拠調べと考えれば徹底的に出来るの」
「でも、この子達はあくまでこっちの住人なのよ。魔法を解くために無理矢理向こうに連れて行くってことはないんじゃないかしら。こっちで調査するよう手配すると思うんだけど、その辺は近衛近右衛門の手腕に期待するでは駄目かしら? それぐらいの機転は当たり前のように有しているはずよ」
「そうだとしてもあすなはどうするの? 魔法無効化能力者なの」
「やってみないことには分からないんでしょ。同じくらいに明日菜ちゃんに読心術が有効かどうか分からないしね。そうね。だったら万が一の事を考えてこの子だけ入院させたら? ひとりだけなら不自然って訳でもないでしょう」
「なるほどなの。それは有りかもしないの。本当に盲腸辺り取り除いて貰ったら良いの」
 明日菜は、ないと叫びたかったが声が出なかった。
「凄いの、魔法が効かないことを逆手にとった妙案なの。でも盲腸は手術方法では日帰り可能なの。肝臓を三分の一とか腎臓を一個摘出だったら完璧なの」
 アナセスの声が興奮のあまり上擦っていた。このままでは際限なくエスカレートしそうで、見る見る明日菜の顔色が青くなる。
「ちょ、ちょっと待って」
 叫ぶように震える声を挟んだ。黙っていたら碌でもないことになりそうで、
「あ、あんたなにいってんのよ。そんなの駄目よ」
 明日菜の脳裡に千雨が別荘で行った実験が過ぎり、勢いよく髪を振り乱した。



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