麻帆良外典 ~真・女神転生before~ 受胎編 第三ノⅥ
第三章 潜入異界都市Ⅵ 異変
ベチャリと左顔になにかが張り付いた。つーんと突き刺さるように臭気を漂わせ、流れ落ちるものがある。しかし、そんなものは鼻腔や口内に充満しきっていて判断材料にはならない。
いや、分かっている。理解しているが、あまりのことに脳が働こうとしない。ただ熱く、額から反射的に閉じた瞼の上を覆い被さり、頬に垂れ下がる熱を感じ取っていた。
それでも認識しているはずだ。茫然としてはいるが、塞がれた左目の代わりをしなければならないと右目は限界まで見開かれている。そこにパッチワークで覆われたサキがいた。
なのになにもおかしくないと思えてしまう。不思議だ。おかしいはずなのに、頭の一部が欠けているのに、色彩が豊かになったぐらいにしか思えない。右側面から右目に掛けてえぐれていても、サキがゆっくりと腕を上げたからだろうか。傷口にふれると身体がびくっと身を震わせるだけだからか、白と黒と肌色に、赤と灰と黄の新色を追加しただけにしか思えないのかもしれない。
(誰がやったんだ?)
オルトロスは後ろにいる。するとヴェスタだろうか。ドワーフだろうか。それとも鳳凰なのか。魔獣以外はその姿は確認出来ていない。
「姐さん!!」
千雨はびくっと肩をふるわせた。顔に張り付いた肉片が滑落する。
(ソステロ?)
視界の隅でコボルトが大きく手を振っていた。自分を姐さんと呼ぶ獣人はソステロしか知らない。すると彼がこれを行ったと言うことなのか。
(そこまで強力な悪魔だったのか?)
だがその疑問はすぐに払拭された。少し視線をずらすとボロボロの茶々丸がいた。無音の暗殺術と呼んでも過言ではないレーザーを使用したのだ。
「って」
のん気に謎解きをしている場合ではなかった。反射的に王笏に手が伸びる。人間だったら動けないはずだなのに、傷の具合を確かめた。
(そうだった)
これとまったく同じといってもいい光景を見ている。邪神もどきに変貌した少女も同じ事をしたではないか。その少女はすぐに死んでしまったが、サキはしぶといようだ。
(悪魔の割合が多いからか)
振り上げた王笏を振り下ろす。今日のためにもう一体、悪魔と合体したと言っていた。それ以前からどれだけの悪魔と合体したのか知らないが、サキは三分の二以上が悪魔で構成されている。それらがサキを生かしているのだろう。
鋭く空を切り裂きながら襲いかかる王笏が、ぽっかりと穴の空いた右頭部の寸前で止まった。
サキの様子がおかしい。ちょっと顎をあげ、空を見上げる眼には生気がなかった。小刻みに揺れるだけでどことも焦点が合っていない。
「あっ」
かつんと突き上げられたかのように白目を剥いた。欠けた側頭部を触っていた手も力なくダラリと落ちた。身体だけが大きく揺れ、倒れるのを拒んでいる。
「……もう終わったんだ」
色々あったが、千雨は出来るだけ優しく訴えた。サキは自身の死を否定するように揺れ続けるが膝が折れる。
「ハァ……いってぇ」
顔が歪み、身体が悲鳴を上げた。
(これって骨とか罅いってるんじゃねぇか?)
魔石では埒が明かないかも知れない。回復役と教えられた鳳凰に頼まなければ。ゆっくりと身体を労りながら振り返った瞬間、背筋に大量の氷を放り込まれたような悪寒が走った。
(やっちまった)
千雨は慌ててふり返ろうとしたが、それよりも早く手首が掴まれ、動けなくなる。誰が掴んだのか、そんなものは一人しかおらず、
「お、お……わ、おわ、てたまる――かッ!!」
地獄の底からせりあがってくるかのようだった。いや手首が軋みを上げる。地獄に落ちまいと必死でしがみついているのだ。そこにとんでもない執念を感じた。純粋な恐怖に千雨は形振り構わず手を振り解こうとした。しかし、びくともしない。
「ひっ」
喉が引きつる。ただただ驚愕の眼差しで見た。焦点の合わない瞳は蚊柱を追うが如く動き回っている。体中至る所が痙攣し、時折大きく跳ねた。いつ内部の悪魔が表に出てきてもおかしくない。それでも自我を保っていられるのは、元の綺麗な身体に戻ろうとするサキの執念だろう。
どこを見ているか分からなかった瞳がその機能を回復した。千雨が釣られて視線を追い掛ける。オルトロスだ。魔獣が引導を渡そうと走り込んできている。
「マハ、ブ・フ」
放たれた冷気が瞬く間に夏の日差しを凍らせる。オルトロスは間一髪で大きく跳ねて避けるが、その体毛には霜が降りていた。
(これでも死にかけかよ)
一面は銀世界、光を乱反射して眩しいほどだ。自分を閉じ込めたあの氷柱の牢獄に比べれば、そもそも別種の魔法かも知れないが、それでもマハブフストーンなどとは比べものにならない威力を見せつけた。
(それより魔法が使えるって事は――)
駄目だ。あれを使用させてはいけない。せっかくここまでやったのに。サキは回復魔法が使えたはずだ。
近くに仲魔はいない。茶々丸なら攻撃できるだろうが、サキが最も警戒しているのは彼女だった。
(私しかいない)
千雨は手を伸ばせば届く距離にいる。なのに気にもとめていない。よく狙いを定め、
「ザン」
詠唱は完了したが、しかしサキは目の前にいなかった。代わりにいたのはオルトロスで、大慌てで飛び退いた。千雨は一瞬きょとんとするが、何のことはない。ただ向きを変えられただけのことだ。
(クソ)
マグネタイトにはまだまだ余裕がある。たとえ攻撃が当たらなくても、回復の暇を与えさえしなければ、この魔人に勝てるはずだ。
頭上を影が覆う。
「ブフーラ」
サキのハッキリとした声を耳元で聞いた。大地から伸びる巨大な氷柱を避けた混成鳥が頭上を旋回する。いつでも攻撃に移れるように、オルトロスも自分達の周りを回り出した。
「ディ――」
それは看過できない。皆動いた。千雨は振り返りぐっと先のえぐれた頭を見ながらザンと唱えるが、サキはなんなく手で受け止め、衝撃波を握り潰した。だが、攻撃はこれだけではない。まだまだ続く。オルトロスも、鳳凰も手を休めない。
絶え間なく続く攻撃をサキは、躱し、受け、捌き、時には隙を見ては反撃する。
(私のせいか)
仲魔達が決定打を与えられないのは、あと一歩深く踏み込めないからだと理解した。あきらかに足手まといで、上手く肉壁として使われている。そしてサキはそんな壁の扱いに慣れても来ている。このままでは遅かれ早かれ、回復魔法が使われてしまう。
(どうにか距離を離さないと――え、なに?)
サキのかなり後方、戦列に加わろうとしないアズミが、やけに下を気にして、そわそわしている。
千雨がなにかを蹴飛ばした。地面を転がる赤い石。
(マハラギストーン?)
サキが毟り取った魔法石が足元に散らばっている。赤、青、黄と色とりどりだ。
(なるほどな)
アズミの心配していることが分かった。だからこそ千雨は黄色のマハジオストーンをなんら躊躇うことなく踏みつけた。つくねのジオでもあれだけ効果があったのだからこれならダメージを与えられるはずだ。
雷鳴が轟いた。目の前が真っ白になる。全身を雷が貫いたと、理屈で理解した。辛うじて意識を保てている。痛い、痛くないを通り越して、感覚が無いからだろう。指一本動かせず、どうなったのか千雨は分からなかったが、そんな自爆攻撃はサキにも有効打を決めた。彼女を一瞬縫い止めることに成功した。
日頃から一緒だからか、オルトロス達は阿吽とも言えるチームワークを見せる。
まず魔獣が爪でサキの手首を落とした。自由になった千雨を鳳凰がその両肩に爪を立て、離脱する。
そして、危惧していたことが起こり、口許を手で押さえていたアズミが、我に返る。性格に何有りの彼女が何故選ばれたのか。それは彼女が悪魔合体を繰り返し、作り上げられた特別製だからで、
「ジオダイン」
動かぬ的を射貫くなど造作もない。荒縄のように絡まりながら飛来する雷。サキを中心に放電現象が起こり、閃光に包まれ、絶叫が轟音に飲み込まれた。
明けた視界の真ん中で、どさりと音を立てサキが倒れ込む。身体の至る所が弾け飛び、黒煙を上げていた。千雨が、倒したのか、と聞こうとした。しかし上手く唇が動かない。
「まて、すぐに治療する。下ろすぞ」
ゆっくりと地面に着地したが、身体が痺れて上手く座ることも出来ずに、寝転がった。
(今度こそ……)
「「ディアラマ」」
その声はやけにハッキリと聞こえた。千雨は血の気が引く音まで聞いた。
痺れが抜けきっていない筈なのに頭は声がした方にはすんなりと向む。誰かがほっと胸を撫で下ろすような吐息を漏らす。サキは片膝立ちで、骨を覗かせた血だらけの手を見て、当惑している。
自らに注目が集まっているのを感じ取ったサキはハッと目を見開き、
「ディアラマ」
と唱え続けた。
「ディアラマ――ディアラマ!!」
縋るような声が響く。しかし、奇跡は起きない。
千雨は気付いていた。オルトロスも、仲間達は誰もが気が付いていた。気付いていないのは当人だけだろう。サキのシルエットが一回り大きくなっている。初めは怪我のせいでそう見えていたのかと思ったが、そうではなかった。
「イマノデ拮抗ガ崩レタナ」
オルトロスの声が聞こえたのだろう、サキが戦慄く、大きく背を仰け反った。弾かれたように天に向かって突き出された腕は、彼女の頭より大きな瘤で埋め尽くされていた。邪神に身体を乗っ取られた少女のそれと一緒だ。悪魔が本来の姿を取り戻そうとしてる。自覚することで悪魔を抑え込むことが出来なくなった。
それでも、サキは歯を食いしばり、姿勢を正した。
「サモン――」
オルトロス達が焦り出す。阻止しようと動き出すが、「大丈夫」と千雨が止めた。オルトロス達はそれを体験しているはずだ。
「ブラックウイドウ、リリム、マンドレイク、グーラー」
ハッキリとした声でオーダーを告げる。
(大丈夫)
千雨が心中で零す。つくねは自分が想像した以上の事をやってくれたはずだ。それでも緊張してしまう。もし悪魔が召喚されたらと思うと、不安にならない訳がない。
生ぬるい風を感じるのに、どれだけの時間を要したのか。喉が酷く渇いている。
「な、なんで……」
サキが目を見開き、狼狽え出す。召喚陣はどこにも現れない。ぎこちない動作で何度も腰の辺りを叩いた。ベルトに差した一昔前のゲーム機を引き抜こうとしているのだろう。震える指でどうにか召喚器を掴むと、
「……な、なにこれ? どうしてこんな」
顔を上げた顔は泣き笑いだったが、千雨を見てサキは驚愕に染め直す。千雨は笑っていた。別に自分がやったことではなかったが、ここにいないつくねの代わりに誇らしげに笑って見せていた。
サキがオルトロス達に視線を投げた。彼らがなぜここにこられたのか、それが答えだった。もう一度、なにかの見間違いではないかと手元を見て、
「サモン!! ――アエロー! トロール! オーガ! インキュバス! ブラックウイドウ! リリム! マンドレイク! グーラー!!」
叫喚は何事も無く消え、歯軋りだけが残った。睨み付けられたが、もう怖くも何ともない千雨は、平然とそれを受け流すと、サキの像が多きく揺らいだ。
「……う、うそ……よ、こんなことが、なにをやっても壊れないのに……」
引きずるようにして足が一歩前に出た。引導を渡そうとオルトロスが横を通り過ぎようとしたが、千雨は背に手を置いて引き留める。
「そうなのか。頑丈なのかも知れしれないけど、ハッキングは簡単に出来たぞ。まあ、ラボの人間は電子精霊の存在を知らなかったようだけどな」
「うそ、そんな。私…………れた通りに……」
サキが茫然と空を見上げながら呟いた。それには千雨が我に返った。悦に浸っている場合では無い。
「いま言われた通りっていったよな?」
「なんで、なんで……」
頭を振り、取り乱すサキに向かって千雨が叫んだ。
「おい、さっき言われた通りって言ったよな――誰に言われた!!」
だが声は届いていないのかサキはひとり、
「…………騙して…………殺して…………」
とぼそぼそと呟きながら、身体を大きく揺らし続ける。
「もうすぐ綺麗な私になれるのに……してくれるって言ったのに……」
それだけはやけにハッキリと聞こえた。
「おい、誰が言った。答えろ。誰が綺麗にしてくれるんだ!!」
いまにも掴み掛かりそうな勢いで前に出ようとしたが、
「近ヅクナ」
オルトロスが間に割って入る。思わず睨み付けてしまうが、只の八つ当たりだとサキに視線を戻した。そんなサキの瞳からは力が消え失せている。ただ口を開閉させるだけで声も出ていない。それがどういった言葉なのか、千雨には理解出来なかった。
それでもこれまでの事で推測できることがある。
(人間と悪魔を合体させてるのって、もしかしてラボでやっていることなのか?)
オハラの顔が脳裡を過ぎるが、頭を振って否定する。
(そうだ。あんな誰でも使えて人目につくところで……、悪魔召喚プログラムの研究者は多くいるらしいし)
しかし、なぜこんなにも胸騒ぎがするのだろう。
「モウ良イダロウ」
千雨の返事を待たずにオルトロスが一気に間合いを詰め、振り上げた前足が一閃する。
歪な頭が、血の跡を残しながら地面を転がった。
まるで酔っ払いの千鳥足だった。千雨は血道を築くそれを黙って目で追う。ちょっとした瓦礫や頭部に負った傷で進行方向を右に左に迷走するその様は、酷くもの悲しく思えた。サキの人となりは分からないし、同情する必要もないのだが、どうにも感傷的な気分になってしまう。
頭が小さなコンクリート片に乗り上げた。握り込める程度の大きさだが、勢いが弱く乗り越えることが出来ない。頭部は斜面を滑り落ちるようにして戻ると、ごろりと半回転し、千雨の方に顔を向けて止まる。
他人の走馬燈を垣間見たような気分がした。血の筋が彼女の辿った人生そのものに見えてくる。コンクリート片はきっと自分達だ。本来なら障害と呼ぶには語弊が生じるあまりにも小さい存在……
「終わったな」
千雨が漏らすが、相槌はなかった。誰もがサキの頭部をジッと見つめている。
もう立つことはないだろう。白目を剥いて事切れている。顔中、砂だらけだ。そんな頭は、レーザーで右頭部が欠け、電撃で至る所が弾け飛び、柘榴のようになっている。なのにその顔は生前よりマシだった。悪魔と合体する前の姿を取り戻している。欠損していても分かるほどに、整った顔立ちをしていた。
「人間に戻れたな」
千雨はそう声を掛け、サキに近寄った。不思議なもので、素直に喪に服せる。慣れというのもあるのだろう。しかしなによりサキは敵らしい敵だった。その事が大きいと思う。
(勝手な言い草だけどな)
ただ単に自分が手を下したのでは無いからかも知れない。それは蛇女の時も同じで、あれに対してもダメージは受けていない。
(ま、いいや)
髪を掴むと砂でざらざらしていた。光沢もなくごわついている。碌な手入れも出来ない環境だから仕方がない。
「姐さん、頭なんかどうするんで?」
いつのまにかソステロが横に並び、アズミが続く、
「もしかして着飾るの?」
言っている意味が分からず、千雨はキョトンとなるが、大慌てで聞いた。
「――はぁ?! なんで着飾るとかそんな発想に行き着くんだよッ!!」
「悪魔の中には殺した人間の頭蓋骨をネックレスとかに……」
「カーリーだな」
鳳凰が注釈を入れた。
「しないって、私は人間!! なんで、お前の中じゃ、私は悪魔なんだよ」
アズミが飛び退きながら、顔を逸らし、震え出す。調子に乗りすぎたことを後悔している。
「まださっきの食物連鎖を引きずってんのか」
アズミを睨み付ける。右を向こうが、左を向こうが突き出た目は視野が広すぎて、逃れることが出来ない彼女はこれでもかと狼狽えた。
「頭蓋骨なんかあつめてないから。その両手で頭を守る仕草をするな! 焼き魚にして喰わないから身体を抱きしめるな!!」
笑い声が漏れ出し、空気が緩む。本当に終わったと千雨は実感できた。
「ああ、もう、なんつーかな。別れに離れにしておくのは可哀想だろ」
どこか感心したような眼差しを受けながら、千雨は頭を持ち上げた。揺れに合わせて、伝わる皮膚が剥がれるような感触がとてつもなく危険だ。手を離したい。でも注目を浴びている手前、今更止められない。
胴体部分は俯せで倒れていた。見ただけで分かる。内部から破裂して骨まで見えて、かなり脆くなっており、足でひっくり返した。
「ざ、雑でやんすね」
間髪入れずにされた指摘に、千雨は困ったような顔をした。靴を通しても伝わってくる感触はこれで正解だといっている。
「いやだって、手じゃ無理。絶対にべろんっていろんなものが剥がれる」
頭部を本来あるべき位置に置いた。手でも合わせようかと思ったが、
「あれ?」
死んでも離さなかった召喚器に目が行く。つまみ上げるとするりと指からすり抜けた。倒れた衝撃でも離さなかったのに。
「GAMEOVER」
黒の背景に白い文字で画面を命一杯使って描かれていた。つくねはサキがこれを見ると予見していたのだろうか。していたに違いない。
「そういや、やけに早かったな……」
「どうしたんで? 何か付いてますか?」
答えずじっと凝視しているとソステロは初めは不思議そうな顔をしたが、だんだん憂えに変わり、耳やひげをぴくぴくと動かし、そわそわし出す。
「……いやあのさ、悪魔召喚プログラムを壊しただろ。するとこいつの悪魔達はどうなったんだ?」
「サテナ。ソレヨリも礼ヲ言ッテオク。アト少シ遅カッタラ俺モヤラレテイタトコロダッタ」
魔獣は周囲を警戒しているのか、視線をあわせようとしない。その仕草がそっぽを向いて照れているように見えて、千雨は笑いがこみ上げてきた。それには、ナンダ、とオルトロスが不快感を表す。
「いや、なんでもない」
千雨は視線を外す。
「あれ? ドワーフとヴェスタは」
「……アイツラハヤラレタ」
「え?」
「大丈夫よ。プログラムには安全装置があるから。召喚した悪魔の状態を逐次監視しているんじゃなかってタカヨが言ってたわ。危なくなると自動で戻されるの。ただ安全装置が働く程に損傷すると当分の間、休息が必要だけど」
千雨がほっとする。しかし、すぐに苦いものに変わった。
(私のプログラムにもそんな機能があったら)
あの時、電子精霊達は死なずに済んだのではないか。頭を振る。そんなことは言っても仕方がないことだ。
「それにしてもよく見つけられたな。もっと掛かると思ってた。あのあとすぐにそこのフクロウの――」
「アンドラス、堕天使ダ」
「そのアンドラスに遭遇して、全然違う方向に進まされたのにさ」
「あっしでやんす」
胸を反らして自慢げにソステロが口許を吊り上げ、意気揚々と武勇伝を語り出した。
「香しい姐さんの臭いを追えば容易いことですぜ」
「え!?」
思わず声を上げて、自分の体臭を気にしてしまう。暑いし、動きづめだ。ましてやけにべたつく脂汗もたっぷりかいたと言うのに、風呂に入れていない。するといままでもやばかったのか。
「もう女の子になんてこというのよ。千雨ちゃんは臭くないわ!!」
なんとも心が晴れるいい音がした。割と本気だったのだろう。ソステロはグエッと断末魔をあげて地面に叩き付けられた。人一倍臭いに敏感なアズミはこういうことを言う輩が許せないのだろう。ただ、彼女のフォローは素直に受け入れられないものがある。
「貴方の事が大体分かってきたわ。誇張が多いのよ。本当は、千雨ちゃんの元に向かっていると、偶然サキを見掛けたの。どうも周りが見えてないようで、急いで行っちゃったから、後を追い掛けたのよ」
「うん? じゃあもしかして結構前に到着してたってことか? だったら助けろよ」
「そうしたかったのですが」
憤慨した千雨の気勢を削ぐように、茶々丸の無機質な声が響く。
「正攻法ではあの場に割って入っても救出できる可能性が低く、様子を見ているとむしろ下手に刺激しない方がいいと判断しました」
「まあ、たしかにそうだよな」
その答えは薄々分かっていた。彼女が一時の感情で動くとは思えない。合理的に行動を起こすだろうと言うことは。
「すると誰か助けを呼びに、ソステロを行かせたんだな」
「はい、しかし、こちらの体勢が整わないまま千雨様が挑発し始めましたので、どうしようかと思いました。運がよかったですね」
「運か、そうだよな。うん、まあ、運だよな。でもあの時はあの時で必死だったから、そんなこと考えている余裕は無かった」
千雨がモニターをクリックする。電子精霊は健在だ。あのままではつくねだけでなく、他の仲魔もマッカの許す限り召喚させられて、皆殺しにされていただろう。そうすると本懐が遂げられなくなってしまう。
(いや、そんな心配することも出来なくなっていたな)
あの時、オルトロスが来なかったらどうなっていただろう。遅れ馳せながら膝が震えだす。想像出来なかった。サキの望みが叶ったのだろうか。
「さて、そろそろいいか。これからの事を話し合おう。おっとその前にチャクラドロップを譲って貰えないか? マグネタイトを使いすぎた」
鳳凰がそう言うと大地に降り立ち、ぴょんぴょんと雀のように飛び跳ねながら近づいてきた。どうにも似合わないコミカルな仕草だった。足を怪我でもしたのか。怪我をしているようには見えなかった。ただ歩くのが苦手のようだ。
「ほら」
チャクラドロップの譲渡に躊躇はなかった。ただ――それでも包み紙にくるまれたまま渡す。意地悪というつもりではないが、これをどうするのかちょっと興味があったからだ。
鳳凰は嘴で受け取ると、口の中で器用に転がしながら、包み紙を剥がし、飴だけをゴクリと飲み込んだ。
「案外手慣れてる? ま、いいや、それでこれからどうするんだ。戻って合流するのか?」
「いや、このまま進むのが得策だろう」
鳳凰の提案に千雨がきょとんとなった。二度瞬きをして、十分に言葉の意味を飲み込んでから、
「え!? 私達だけでか、戻った方が安全じゃないか?」
「いや、このまま我々だけで進んだ方がいい」
鳳凰は譲らない。不満げな千雨に対して説明を続ける。
「ノブヒコ達の事を信頼していないわけではないが、敵の数が多い。万が一のことも視野に入れるべきだ。ドワーフとヴェスタがいないので、アキラとマドカの安否は分からないが、我々が居ると言うことは残り三人は無事だ。敵が健在ならいまも戦って足止めをしている事だろう」
「そうね。せっかく私達はこうして自由なんだから、それを棒に振るのもなんだわ。合流すればたしかに安全性は高まるけど、千雨ちゃんは吉祥寺の駅ビルに辿り着くことが目的なんだから、戻るとまた誰かと戦いになる危険性もあるし」
「ソレニダ。マダム達ガ負ケルナンテコトガアレバ、我々ハ、オ前ヲ助ケルコトハガ出来ナクナル」
ゴクリと千雨の喉が鳴った。そうなれば茶々丸とソステロの三人になる。実力不足は否めない。それでは昨日の二の前になる可能性が高い。
「もしマダム達が負けても、出来る限り距離を稼げば……」
千雨の呟きを鳳凰が引き継いだ。
「生還の可能性が高まる」
「考えるまでもないか」
状況はサキに襲われた時と比べるまでもない。これ以上、贅沢を言うものでは無いだろう。
「じゃあ、急いでこの場を離れようか。どういうルートで吉祥寺を目指す? もしマダムが負けたことを考えると最短距離で行った方がいいんだよな?」
目的地が割れている。敵も追い掛けてきている。わざわざ遠回りする必要も無い。
「そうだな」
鳳凰が相槌を打つが、視線はアズミに向けられていた。そのアズミはすでに方向転換をしていた。
「どうしたの? 行かないの?」
「いや行くが、その前にアズミ、頼みたいことがある。お前は戻って連絡と、万が一の場合は足止めをしてくれないか」
「ちょ、ちょっと待て、アズミ一人でか?」
それには千雨が焦った。万が一の場合は死ねと言うことでは無いか。
「ああ、サキの行動はアサミ達も想定していないかっただろうからな。きっとあの場に戻ってくるはずだ。鉢合わせできれば時間を稼げるだろう。タカヨがやられるのが先かも知れないがな」
「縁起でも無いこと言わないでよ。うちのタカヨは死んだりしないわよ。あと千雨、心配しなくて大丈夫よ。さっき言ったでしょプログラムの安全装置が働くって……そうね。その方がいいかも、うん、私がここまでするんだから絶対に送り届けるのよ」
「アア、任セテオケ」
オルトロスの力強い答えを聞いて、アズミは満足げに頷くと、反対方向に向かって駆け出した。
だがそれを、
「あ、ちょっと待て」
と千雨が呼び止め、急いでプログラムを操作する。
「これ」
なんなくキャッチしたアズミが手の中のものを見ながら「いいの?」と言った。
これでチャクラドロップはあと二つだが、後悔はない。
死角などないに等しい。ほぼ三百六十度見えているが、それでも顔を向けずにいられなかった。右に、左に、きびきびと動かし物陰に悪魔が居ないか注意深く観察する。倒壊して民家。コンクリートが剥がれ、鉄の骨組みが露出したマンション、確認場所は数え出すときりがない。この辺りは先行して悪魔の排除を行っていない。どこで悪魔が息を殺しているか、どこから襲いかかってきても不思議ではないのだ。
あと物陰けだけに気をとられていてはいけない。アズミが空を見上げる。空を飛ぶ悪魔など珍しくも何ともない。むしろコイツらは厄介だ。目が良い。群れで行動していることもしばしばある。握り込んだ拳の中にあるチャクラドロップがあるが、多勢に無勢の戦闘はできる限り回避しなければいけない。
(大丈夫――行けるわ!!)
発破を掛けて、一気に飛び出る。次に身を隠すマンション一階のテナント跡までダッシュ。
「――――ッ!?」
だが、アズミは地面に両手を叩き付けるようにして急停止。全身を使ってほぼ直角に飛び退くと、倒壊した民家のすき間に身体を滑り込ませる。
流行る鼓動に荒くなる呼吸を押さながら、器用に向きを変え、つい今しがた歩いてきた方向を睨み付けた。
見つかっていないはずだ。距離はあった。しかし、腕の代わりに生やした羽を大きく羽ばたかせて飛び立つ悪魔達のそのタイミングが何とも言えない。このまま身を隠して移動できないか、振り返るが、
(私に地中を潜って移動できるスキルがあればね)
完全に倒壊して道などない。お調子者のコボルトのような能力があればいどうできるだろうが、あいにくアズミは水神だ。
(どうしよう。あれはグルルだったわね)
インドでは霊鳥ガルーダと呼ばれたものが、宗教的対立によって隣国スリランカでは貶められてなった悪魔だ。
(三羽ぐらいならどうにでもなるけど)
物音にも細心の注意を配りながら、ゆっくりと後退する。あやふやな記憶だが、二十羽ぐらいいた気がする。多勢に無勢。これだけの数を自分ひとりだけで相手にするのは無謀だ。電撃魔法で善戦は出来るだろうが、ものには限度がある。
(このまま通り過ぎて――お願い)
硬く手を握りしめ、祈った。一分、一秒が酷く長く感じる。いつ凶鳥達が覗き込むかと考えると、鰓が乾いてくる。
(も、もう大丈夫かしら?)
三分ぐらい立っただろうか。もしやり過ごせたならあれらは頭上はとうに越えているはずだ。
(そうね)
握りしめたチャクラドロップを見遣り、アズミは匍匐前進で瓦礫から頭だけを出した。
グルルが編隊を組んで飛んで、明治大の方に向かっていく。
(やり過ごせたけど、どうしてそっちに行くの。行かないでよ)
まだ出られない。アズミの目的地もそっち方面だ。
(それにしてもあの大群、あっちに手頃な獲物がいるのかしら? タカヨ達の戦いにけりが付いたの?)
死体をむさぼるつもりか。数の有利のため気が大きくなっているのかも知れない。疲弊した人間なら十分勝ち目があると。
(行くしか無いわよね)
アズミは顕界している。それはつまりタカヨは死んでいないという証明に他ならない。もし決着がついているとしたら、マダム達の勝利という可能性が高い。
(敗走という可能性もないわけじゃ無いけど)
アズミは意を決して、瓦礫の下から飛び出した。
地を這うものと、空を飛ぶものではスピードに歴然の差がある。間が見る見る距離が空いていく。いつ向きを変えるかとそんな戦々恐々とした気持ちもスピードを殺す要員の一部となったが、そのような心配は無用のものだった。グルル達はアズミなど気にも止めていない。だからだろう、アズミの行動も大胆になってきたのは。
グルル達の姿が瓦礫の山に塞がれると、アズミが四つん這いで山を登り出す。そして視界が明けた瞬間、空が弾けた。
思わず身体が硬直するが、痛みはどこにもない。代わりにグルルが落ちて見た。鼓膜に雷鳴の余韻を感じることから、雷撃魔法が放たれただと認識した。
仲間の行く末を見守った一回り大きいグルルが、顔色を変える。空白の間が甲高い鳴き声で埋まると、グルル達が腕を畳み、一斉に滑空していく。
(急がないと)
戦いが始まった。誰が相手取っているのか分からないが、もし味方だったら加勢しなければ。
アズミは一心不乱に駆けたが、すぐに音はしなくなった。どっちが勝ったのか。そもそも味方なのか。置き忘れた用心深さを再び手にし、物陰からそっと顔を覗かせる。
地面に横たわる凶鳥に、不格好な槍を突き刺す小柄な女があった。見間違えるはずがない。しかし問いかけてしまう。
「タカヨ?」
びくっと肩をふるわせ、顔を上げた。
「あ、アズミ!?」
槍から手を離し、駆け寄ってくるタカヨ。でもアズミの視線は彼女に向けられていなかった。
なぜなら、
「ちょっと待って、どうして、みんな居るの? みんな留守番していたはずよね」
アジトに残っていた戦闘班ほぼ全員がここに終結していた。
「説明はあとよ。それよりもアズミ、千雨ちゃんはどうしたの?」
声と共に人垣が割れた。ボンデージ姿の美女が瓦礫に腰を掛け、右手を肩の高さで地面と水平に挙げている。背後からエルフが治療をしていた。
「え、ええ、そうね。千雨ちゃんは無事よ。吉祥寺に向かっているわ。あとサキが死んだわ」
それにはどよめきが湧き上がった。
「あ、あの魔人が?」
とマダムも顔に驚愕を張り付け、声を震えさせる程だ。
「そうよ。ケルベロスが首を断ったわ」
沸き立ってもおかしくない朗報の筈が、誰も反応を返せない。それほどの出来事だった。思えば、この目で見てないことにはアズミも信じなかっただろう。
そんな中、
「良いことじゃないか、これで懸念が一つ消えた。それでもすぐに追い掛けるんだろ、なあ?」
治療を受けていたノブヒコが片頬を吊り上げ、目配せする。サキには頭を悩まされていたマダムが、我に返り、
「当たり前よ。ナオユキ、コウイチ、タロウにシュウジ、アキラとマドカが治療が済み次第、アジトに搬送して」
アキラとマドカは青い顔をして横たわっている。意識がないのかピクリとも反応しない。目立った傷こそないものの、大量の血を流してしまったのだろう。治療を終えても、失った生命エネルギーまで回復しきれない、静養が必要だった。
「後は私と一緒に千雨の後を追うわよ」
マダムが左に比べて短くなったグローブをはめ直す。それからどういった傷を負ったのか想像するのは容易い。
アズミは手にしたチャクラドロップを見た。
「これ使って、千雨ちゃんから貰ったの」
「私よりもノブヒコ」
「いやマダムが使えよ。俺は一個持ってるからさ」
ごそごそとポケットを探り出したが、まだ動かないで、時間が惜しいんでしょ」と治療に当たっていた悪魔に注意された。それにはノブヒコが浮かした腰を落ち着ける。
「用意がいいわね」
「そりゃな。ひとりで行動することが多いからな」
マダムは受け取ったチャクラドロップを口に含み、一気に噛み砕くとゴクリと音を立てて飲み込んだ。
「それでどういったルートで千雨ちゃんは吉祥寺を目指しているの?」
「ストレートに井の頭線を伝って行くって」
マダムが召喚器を引き抜いて見た。
「ケロベロスは健在のようね」
「おいおい、鳳凰も無事だ。こりゃたまげた。一体どうなってんだ」
ノブヒコが怪我人二人を見たが、端末を操作できる状態にないので答えは返ってこない。
「全員無事なの?」
マダムが聞いた。
「ううん、ドワーフとヴェスタはやられたわ」
「それだけで済んだのかにわかには信じられないな。どうやってあれを殺してのけた。こりゃ参考にしなくちゃな」
そうねとマダムが答えるが、
「千雨ちゃんにしか無理よ」
とアズミが笑いながら即答する。そしてノブヒコの手にある端末を指差し、
「それを潰すことが出来るみたい」
二メートルほど先を、ことの詳細を話しながら四つん這いで走るアズミの背中をマダムは追い掛けていた。斜め後ろにはノブヒコが続く。手足を大きく振りながら、足場の悪い瓦礫の上を事も無げに駆け抜ける。千雨が居た頃とは段違いのスピードだった。これでも行軍のためで全力では無い。
「へぇ~、運、つ~かまあ助かったな」
それでも弾んだ声がやまない。後ろに付いてきている仲間たちもそうだ。誰一人息を切らせず、朗報に色めき立っている。それほどまでに魔人サキの存在には煮え湯を飲まされてきた。
そんな中ひとり、
「そうね」
とマダムはどこか納得のいかないと言ったような声で相槌を打った。歓呼の声がやむ。前を行くアズミも若干ふり返って聞く体勢になり、口を開いた。
「なにか引っ掛かる点でも?」
「ちょっとね。まあ、いまはいいわ。ええ、大金星よ」
「そこまでやってくれたのに、ここで一網打尽といけてたらもっと良かったんだけどな。アサミ達には逃げられちまったし、でもサキさえいなけりゃどうにでも出来る。これが済んだら決着を付けようぜ。マダム」
後ろから声が飛んできた。若干無理矢理明るく装っている節がある。マダムの杞憂が気になるのだろう。
せっかくの先勝モードを台無しにする訳にはいかない。士気も高い。このままの勢いで次に繋ぎたいマダムは、
「ええ、いつもいつもサキのせいで攻めてにあぐねていたけど、もう次はないわ」
と同調して声を張った。
「ああ、流石に今回はやばかったからな。でもそれも報われるってもんだ。ホント、今度ばかりは死ぬかも知れないと思ったぜ」
ノブヒコの口調は内容とは裏腹に明るかった。その気持ちもマダムには理解できる。自分も危なかった。自分とノブヒコ、看板二つをとれば、アサミ達は多少の犠牲はやむなしと本気だった。腕を切り飛ばされたことなど初めてのことだ。でも、そこまで有利に進めての敗走、そして最大戦力のサキの消失は今後に大きく響く事になるだろう。
「そう言えばどうやってここまで来られたの?」
アズミが不思議そうに言った。秘密裏にアジトを抜け出たはずだ。
「あいつらが動いたって情報が耳に入ってな。昨日の今日だし、なによりあいつら全員だって言うから。これはなにかするつもりなんじゃないかって、マダムに報告しにいったら不在。もしやと思って千雨を探したらいない。まあ、どっか気晴らしに散歩でもしてるだけかもしれないけど、一応な」
「それが当たったと」
「運良く派手にドンパチしているのが耳に届いて、様子見に言ったらどんぴしゃ、運が良かったぜ」
「気を付けたんだけど、私達が気を付けるだけじゃ無理だったか。やっぱり人目につかずに新宿を抜け出るのは不可能って事かしらね?」
マダムは苦笑する。ただ引っ掛かるアサミ達がそんな軽率な行動をとるとは。するとこっちが動いたのを大急ぎで追ってきたと言うことだろうか。
「敵味方関係なく六本木と浜松の連中には誰もが警戒してるからな」
「次の角を右に曲がったら到着よ」
と言ってアズミが足を止めた。様子がおかしい。
「どうしたの?」
アズミは応えられない。キョロキョロと視線を彷徨わせている。
「おかしいわ。ここで合っているはずなのに」
黄土色をした双頭の魔獣がたてがみを棚引かせながら疾駆する。相対した悪魔のなんと哀れなことか。同情する必要など無いのに、千雨は悪魔と遭遇する度、「あ~あ」と思ってしまう。それほどまでに圧倒的だった。マダムが護衛にと自信を持ってつけるはずだ。サキという魔人を例外に、その力が目の前で遺憾なく発揮されようとしている。
驚愕のまま動けない。髪をポニーテールにし、青みが強い肌をした厚みのない身体を革の鎧で覆っていた。初見だ。彼に非は多分ない。ただ進行方向にいた。それだけだ。
時間が勿体ない。そう言わんばかりに有無を言わさず、ケルベロスが懐に潜り込み、のど元に噛み付いた。反りの入った剣を振り上げる暇はない。
肉を裂き、骨を噛み砕く音だけが聞こえてくる。悪魔がゆっくりとなにが自らに起こっているか、眼球だけを動かした。しかし、オルトロスは目視すら許さないのか、頭を大きく振ると、千雨の脳裡に暗闇で光る骸骨のキーホルダーが思い浮かんだ。
左右に振ったように身体が大きく揺らいでいる。もう勝負はついた。一目瞭然だ。
オルトロスはそれでも悪魔を地面に叩き付けた。悪魔は力なく四肢を投げ出し、遠目でも分かる程に事切れている。
「呆気ないもんでやんすね。あれは地霊ブッカブーってヤツですぜ」
背後から耳打ちするようにコボルトのソステロが言った。地霊と言えばソステロもだからだろうか。そんな類似点を見付けてしまって、どこか批難めいて聞こえた。
オルトロスには聞こえなかったのか。彼はキョロキョロと左右に目をやると、先を急ぐように地面を蹴った。
地霊の亡き骸を横目に千雨達も後ろをついていく。首が半ば千切れかかっていた。これまで出会った悪魔は種族、種類に関係なく同じ末路を辿っていた。
戦いと呼ぶのはおこがましい一方的な虐殺。視界に入れば、全速力で接近、一気にかたづける。戦わずに進むのが一番いいのかもしれないが、それでは時間がかかりすぎる。だから多くてこちらまで被害が及びそうな場合を除き、排除していた。これが護衛対象を危険に晒さず、最短コースを行く最善手だった。ちょっと矛盾しているようにも思うが、攻撃こそが最大の防御とオルトロスは体現して見せている。
「あれは三鷹台か」
千雨の足が止まる。川向こうに見える駅舎は倒壊していなかった。薄汚れているが看板も読めそうだ。雑草を引き抜き、軽く補修すればすぐにでも再開出来そうで、哀愁に狩られる。肝心の列車と電力がないが。
「ドウシタ」
「あ、うん、悪い」
駅から進行方向に視線を向け直すと、廃墟群の先に緑が見て取れた。鬱蒼とした井の頭公園のそれだろう。
「あと二駅だな。なあ、このまま井の頭公園を突っ切るのか?」
「それでもいいし迂回してもいいだろう。左周りは遠くなるが、それでも可だ」
地上から二、三メートルの所を滑空しながら鳳凰が言った。目立たず、それでいてなるべく周囲を見通せるギリギリのラインを保っている。それ故にどこか窮屈そうだ。
「森の中の方が隠れるのには都合がいいけど」
瞳の端で勇猛な魔獣の後ろ姿を見た。ただこのまま足を踏み入れれば、オルトロスによる有無を言わせぬ妖精達の殺戮が繰り広げられる。
「ちょっとストップ」
「ナンダ」
とオルトロスが頭だけで振り返った。
「井の頭公園では戦闘なしって事には出来ないか」
「できなくはないが、あそこは妖精のたまり場だからな。十体ほど殺して、力の差を見せつければスムーズに通り抜けられるぞ」
オルトロスでは無く鳳凰が答えた。
「いや、それはそうなんだろうけどさ。あそこでピクシーとゴブリン仲魔にしているし、全部仲魔にしなかったけどかなりの数と顔見知りだから……」
見分けは全然付かないけど、と付け足す。
「それなら迂回した方がいいかもしれないな。入って千雨を見付けたら寄ってくる可能性がある」
「そうなったらまたあのやり取りをすることになるのか」
千雨の顔に苦笑が浮かび、
「時間が掛かりそうだな。じゃあ、右ルートで行った方がいいかも」
「ソレハ好キニシロ。コノ辺リニ自然ト出現スル悪魔ナラドノルートヲ通ロウト変ワリハナイ」
「そうか、それじゃ右ルートな。それとさ、そろそろ例の悪魔使い達にも気を付けておかないといた方がいいかも、どこに居るか分からないからさ――ッ!?」
千雨が勢いよくかぶりを振って後ろを見た。ソステロも、茶々丸まで感じたのかも知れない。同じように後を向いている。
鳥肌が立っていた。とてつもなく恐ろしい気配がする。ここにいない方がいい。一刻も早くこの場を後にするべきだと警告する。
それなのに足が動かない。逃げても逃げても追い掛けてくるような気がする。これは誰でもない自分に向けられているものだ。それはどこか確信めいていて、この変質的な妄念には憶えがある。
「クルゾ」
神田川から水柱が吹き上がった。千雨の顔に苦笑が浮かんだ。水柱の中に人影が見える。信じられない。しかし、納得がいくというおかしな矛盾を抱えて、酷く気持ちが悪い。それはきっと自分だけではないはずだ。この場にいる者達、共通の思いに違いない。その証拠に誰もが動けず、ただその現象に魅入っている。水柱の中から姿を現すのが別人であって欲しい。そう願って……、彼女は死んだと自信を持って誰もが判断を下したのだから。
なのに、
「どこまで執念深いんだよ」
姿の見えぬ宿敵にたいして千雨が真っ先に、まるで唾でも吐き捨てるように言った。けれどもその声は誰にも届くことなく、アスファルトを叩いた土砂降りの雨によって、かき消される。
軽く痛みを覚えるぐらいの水量が降り注いだ。巻き上げられたのは本当に水だったのだろうか。重く、まるで皮膚から浸透してくるかのように纏わり付き、不快感を顕わにせずには居られない。
(これって私のせいか?)
こんな事になったのは仏心など出したからだろうか。だからちゃんと死ねずに迷い出たのだろうか。
(バカか、そんな訳ある訳ねぇ!!)
千雨は命一杯反故にするが、見つめる視線の先に立つ女の姿は消えなかった。全身から水を滴らせて、ボロボロの身体で、小脇に斬り落とされた首を抱えている。
すぐ横を颶風となり、黄土色の影が通り過ぎた。瞬きも許さず振り下ろされる爪が、サキを捕らえる。左肩から右脇腹まで裂傷が走った。
血は出ない。もう流し尽くしたのだろうか。心臓が動いていないからか。ぱっくりと裂けた傷口には微かに血の色が滲むだけだった。
警戒を緩めないオルトロスを前に、魔人は背中から倒れた。小脇に抱えた首が転がり落ちる。やけに呆気ない。
「………………こ、今度こそ終わったよな?」
千雨の声は震えていた。事をなしたオルトロスに視線が集中するが、彼はじっと己の爪先を見ているだけで、答えようとしない。
このままでは埒が明かない。千雨は転がった頭を注視した。隻眼に意志の力は宿っておらず虚ろだ。これは紛れもなく死人のものだろう。そうとしか判断できない。
「な、なんだったんだ」
千雨などより遙かに経験を積んでいるはずの鳳凰が困惑を隠せていない。落ち着きなくサキの周りを旋回している。
「あ、あっしが確かめやしょうか?」
スパイクロッドを両手で握り、抜き足で擦り寄っていくソステロ。恐ろしいのか、毛が逆立っており、ちらりちらりと振り返った。格好つけてみたものの止めてほしいのかもしれない。
だが千雨は止めなかった。誰かが確かめなければ、サキに近づくにつれてソステロの歩幅が縮んでいく。
それでもどうにか一メートルぐらい進んだソステロが振り返る。瞳には涙が浮かんでいた。
「千雨様?」
そんな彼を気の毒に思ったのか、茶々丸が声をかけてきた。どうするべきか。死亡確認はしてほしい。しかし、万が一を考えると……
「良いこと思いついた。ソステロ」
コボルトの顔にパッと花が咲いた。だが千雨はそれを見ていない。足元の手頃な石を拾い上げ、
「退け」
大きく振りかぶって投げた。ソステロが頭を抱えて横に飛ぶ、オルトロスも退いた。
距離は六メートル弱。唸りを上げて飛翔する石は、ぽっかりと空いた側頭部に見事命中、吐き気を催す音を立て、ごろりと転がり、天を仰ぐようにして止まった。
「あー、なんかもう一回ぐらい化けて出そう」
死者にむち打つあまりな行為だろう。自分が呪われたような錯覚を覚え、ぶるりと身体が震える。
「も、もう絶対に死んでるよな!!」
感傷的になるな、気のせいだと二の腕を擦りながら声を張り上げた。
「アア、死ンデイルハズダ」
オルトロスが踵を返す。だが、その表情はどこか浮かない。他の面子も同じなのか、じっとサキの骸を見下ろしたままだ。
「そ、そうだ!? 死体を晒しているから気持ちわるんだ。火で燃やしてしまえば、もう動くこともないだろ。もしかしたらちゃんと荼毘に伏せろって言いたくて、追い掛けてきたのかも知れないし」
千雨は腰に吊した革袋からマハラギストーンを取り出した。最後のは勿論本気で言ったわけでは無い。何とも言えない思い空気を和らげようとしただけだったが、その試みは失敗した。オルトロスと鳳凰は周囲を警戒し始めている。
「どうしたんだよ」
そんなことをされると不安になってくる。そんな憂いを払拭する為にも、千雨はサキに向かってマハラギストーンを投げつけた。もう化けてく出てくれるなと願いながら。
ゴオッと音を上げて、燃え上がるサキ。その炎を背景にオルトロスが口を開いた。
「先ホドノ強烈ナ気配ガ気ニナッテナ」
「サキじゃないのか? 私にはそう思えたけど」
「ソウナノダロウ。シカシ、ドウニモ腑ニ落チナイ」
「死体を操る悪魔もいるのだ。有名処ではネビロス、堕天使ネビロスが死体を操る。しかし、そんな高位の悪魔はここでは見たことがない。だが、そんな悪魔を使役出来そうな悪魔使いは居るだろう」
「そうか、そう言うことか」
ついに危惧していた連中が動き出したのかも知れない。
「あ、あの姐さん?」
ソステロが躊躇いがちに声を掛けてきた。爪が肩に刺さりちくちくする。
「…………」
千雨は言葉を返せなかった。確認なんて必要ない。ごうごうと音を立てて燃えさかる炎の中、天を掴むように腕が伸びた。
腕が彷徨う。何かを探している。頭だ。頭部を探している。間違いないだろう。ごろりと頭の方に寝返りを打つようにして向きを変えたのだから。
「な、なあ、これって操られているのか?」
「ワカラン」
オルトロスが周囲に忙しなく目を向けるが、別の悪魔は見つけられないでいる。
「くそ、なんなんだよ」
千雨もそれに加勢しようとしたが、ふと脳裡に宿るものがあった。似ても似つかないはずなのに、足と手を引きずりこちらに向かってくる少女の幻影と重なる。
(いやそんなはずは……)
頭を振る。頭を潰せば殺せたはずだが、ハッとなった。
(違う。そうじゃない。核となる携帯電話を潰したんだ。すると、もしかして――)
震える手が腰に差した王笏に伸びる。サキの端末は分解して構造を調べて貰おうと、持ち帰ることにした。しかし、これを潰さなければいけないのかも知れない。
だが、プログラムはつくねが破壊したはずではないか。いや、と頭を振る。考えている場合じゃない。確かめもせずに断言してはいけない。まずはやってみるべきだ。可能性があるものを全部叩き潰せば原因が自ずとハッキリする。
指でモニターを弾こうとするが、それを縫い止めるようにとてつもなく恐ろしい気配に襲われた。その発信源が頭を拾い上げ、元の位置に戻そうとしている。
それだけはさせてはいけない。と分かりつつも身体が動かない。
手が離された。体中に出来た傷口からどす黒いヘドロのような水が溢れ出し、炎をかき消し、その姿を覆い隠す。
恐怖が臨界を超えた。魔法を唱えようとマグネタイトを一点に集中させる。それは千雨だけでは無く皆一緒だったのだろう。変身中は攻撃しない。そんなものは危機感が欠落でもしていなければ出来ない所業だ。そんな輩は負けて当然だろう。
一番槍はオルトロス。今度こそ確実に引導を渡すために腕を振るった。
しかし、様子がおかしい。全身の筋肉が異様に隆起していた。牙も砕けんばかりに噛み締めている。黒水の層を貫けないのか。
(そうじゃない)
繭のように見える。細い細い黒い糸が巻き付いているように。そして爪が突き刺さったところは、とぐろを巻くように渦を巻いていた。オルトロスは呑まれまいと踏ん張っているのだ。
加勢するべきだ。しかし、それよりも早くオルトロスは自分の足に牙を立て、飛び退いた。
「ディアラマ」
指示も何も必要ない。すぐに鳳凰はオルトロスの元に舞い降り治癒魔法をかけた。
「姐さん逃げやしょう」
ソステロが強く腕を引いた。
「コイツの狙いは私だ。追い掛けてくるぞ」
千雨はすぐに反論する。無謀だと理解しているが、ここで戦わなければ行けない。
なのに、
「逃ゲルゾ」
オルトロスがソステロに味方した。
「コレノ相手ハ荷ガ重イ」
それはこちらに打つ手がないと言うことで、
「くそ」
怒鳴りながら千雨が見上げた。すでに黒い繭は二階を超えて、まだまだ大きくなっていく。もう三階に達しそうだ。こんなものを引き連れて吉祥寺に向かうのか。
「行クゾ」
逡巡していたのがまずかったのだろうか。それでも決断し踵を返したが、遅かった。ぐんっと前に身体が押し出される。相当な威力だ。踏ん張ることも出来ず、ヘッドスライディングをするようにして盛大に転んだ。
反射的に手をついたが、威力は殺せず、地面を転がる。痛みを気にしている余裕はなかった。なにが起こったのか。考えるまでもない。全身がずぶ濡れだ。もともとずぶ濡れだったが、今度浴びたのは水と油ぐらいに違う。けれどこの気持ち悪さに覚えがあった。水しぶきにも少量、混ざっていたのだろう。
振り向くとそれはアズミに似ていた。しかし、アズミほど魚魚しくない。体長は七、八メートル言ったところか。身体くまなく鱗で覆われている。垂れ下がった乳房を太鼓腹に乗せ、水かきのある手は地面についていた。
目と口の化け物だ。藻がびっしり繁殖した池のような目がぐるぐると回っている。捲れ上がった分厚い唇は紫色で顔の半分を占めていた。
(やっぱりここって関係があるのか)
そのフォルムに既視感を覚える。似ても似つかないが歪み方がこれまでの連中とそっくりだ。その異質さが分かってしまう。そういった目で見ているだけかも知れないが、どうしてもそう言う目でしか見られない。
そんな異形の大魚人に変化が現れる。首元に並んだエラが開き、掃除機のような音を立て、乳房が揺れた。太鼓腹が膨れ出す。
危険だ。どこを見ているのか分からない大魚人の眼球が、自分を捉えた。キスをせがむように唇が突き出される。
当たれば死ぬ。その予感は何よりも先に身体を動かした。爪を立て、アスファルトに転がる。
すうっと背後を生暖かい風が流れた。攻撃はあったはずだ。止めどなく汗が流れる。しかし音がない。それでもこの風は攻撃の余韻に違いない。
ふり返ると背筋が凍った。アスファルトに10センチぐらいの裂け目が出来ている。断面は鳥肌が立つほど美しい。もし当たれば痛みもなく真っ二つになるだろう。
そんな破壊の痕跡はどこまでも続いていた。道中にはコンクリートも鉄筋もあったが、なにもかもアスファルト同様、鏡面仕上げで切断されていた。
顔が歪む。笑えてくる。笑うぐらいしか出来なかった。
(今度は手加減なしかよ)
このまま寝転がっているのは拙い。早く立ち上がらなければいけない。しかし、見下ろす大魚人の腹は次弾向けてすでに膨れあがっている。なのにすぐには打ってこなかった。
下手に動けば殺される。西部劇のガンマンの気分だ。
(次も避けられる保証がない。誰か気を逸らしてくれ)
この悪魔はこちらが先に動くのを待っているのだ。確実に当てるために。
(オルトロスでも、鳳凰でも、ソステロでも茶々丸でも、誰でもいい)
合図が出したい。しかし指一本動かせない。
おちょぼ口が作られた。腹がぎゅっと引き締まり、
(いまだ!!)
やれば出来る子だ。しかし大魚人の口から出たのは、ただの水飛沫で……千雨は失敗を悟った。
前回から半年以上経ちましたでしょうか。本来、この回で次の章になる筈だったのですが、半分しか進みませんでした。どうやっても七話になってしまうようです。
次回更新は二百八十回目予定。