千雨と蟻と小銃と 39-2


 勢いがつきすぎた椅子が倒れ、盛大に音を立てた。ただでさえ注目を浴びていたのに、これで食堂にいる署員全員が自分を見ているのが嫌でもわかる。厨房からも視線が飛んできていた。
 だが、小島にそんな雑事を気にしている余裕はない。数多の視線の中で一瞬、強烈な視線を放った火村の精察に忙しいのだ。
 今は表情を戻しているが、椅子を倒した瞬間「こいつは」と物語ったのは見間違いでは無いはず。すると、自分の中に降って湧いた内密の話があるという予想が的中したことの証明として良いはずだ。彼は一体自分にどんな話があるのだろうか。途端、脳裡に最悪の事態がちらつき出す。
スポンサーサイト



千雨と蟻と小銃と 39-1


 ぐちゃぐちゃとカレーのルーとライスをスプーンでかき混ぜる。力が入りすぎているのか、皿に当たってカンカンと無闇に大きな音を立て、その度、近くの席でうどんを食べていた年配の署員が眉尻を小刻みに震えさせた。
 彼は我慢するつもりだった。しかし残り後一口と行った所で堪忍袋の緒が切れた。うどんを口に運ぼうとしていた手を止める。

千雨と蟻と小銃と 38-11


「どうかしましたか?」
 桜咲刹那の声は少し遠かった。我に返った神楽坂明日菜が、夕焼けから視線を外し、声のした方に向ける。友人達が少し距離を開けて立ち止まり、振り返っていた。知らず知らずのうちに足を止めて夕日に魅入っていたらしい。
「あ、うん、日の入りがだんだん遅くなってきてるなぁって」

千雨と蟻と小銃と 38-10


時計の短針は一巡していた。神楽坂明日菜はまだ喫茶店に居る。テーブルの上にはカップとケーキの載った皿がそれぞれ五つあり、その中の一つ、一際存在感を主張するホールのままで鎮座するケーキに視線をやった。
 今度のチョイスはチョコレートケーキだった。青白い蟻が群がっている。その光景は衛生的とは言えず、飲食店としては直ちに駆除したくなるだろう。確証は掴んでないが、このはた迷惑な白蟻の飼い主は長谷川千雨で間違いないと、明日菜は思っている。

千雨と蟻と小銃と 38-9


 ふいと変わった世間話に、神楽坂明日菜はハッとなった。彼女なら――
「千雨ちゃんが大怪我してるんです。治療することは出来ませんか?」
 しかし答えは得られなかった。「あ」と綾瀬夕映が漏らしたからだ。彼女は瞠目していた。
「どうしたの?」
「あ、いえ、いいんです」

千雨と蟻と小銃と 38-8


 神楽坂明日菜が、視界いっぱいに捉えた。
「見掛けてたはいたけど、入るのは始めてね」
 欧州の街並みを再現しているせいか、この街は全体的に色調が明るい。だがこの喫茶店は濃い煉瓦を使用しており、重々しい雰囲気を醸し出している。
「そうでござるな」

千雨と蟻と小銃と 38-7


 チラチラと鬱陶しい視線を向けてくる女子学生達に微笑みながら、エリザベート・D・タルボットは券売機に向かった。悪目立ちしたのは反省しなければいけないが、なかなか面白い邂逅だった。
(これはさっさとこの地を離れた方が良いわね)
 出来るならプラハに戻りたい。しかし勘が告げるのだ。いつでも駆け付けることが出来る距離にいるのが吉と。

千雨と蟻と小銃と 38-6


(どうしようかしら)
 顔が醜く歪んでしまう。白のワイシャツと黒のパンタロンでビシッと決めた優女は、怖さも人一倍だった。視線は、徒歩十分ほどの所にある広大な敷地に建つ建物を睥睨している。時間帯が時間帯、そしてこの辺りが学生寮とそれを目当てにした店舗だから良かった。目撃者は片手で数えられるほどだ。しかし、こういう所があるからすんなりと跡目を譲って貰えないのかも知れない。理解してはいる難しい。

千雨と蟻と小銃と 38-5


 カップをソーサーに置く。アフタヌーンティーと洒落込んでいたが、どうにも落ち着かない。手ずから焼いたクッキーも会心の出来の筈が、味がぼやけている。
「はぁ~」
 天ヶ崎千草は、盛大に溜め息を吐き、テーブルの上で脚を大きく動かし、身振り手振りよろしく喧しく話す白い蟻を見下ろす。誰も相手をしてくれないのか、暇つぶしのターゲットになってしまったようだ。やることなら山ほど有るはずだろうに、ついさっき見たと言う警官達のやり取りをそれはもう雄弁に語っている。それ処では無いはずだ。千草は呆れを包み隠さず、アナセスから視線を外した。

千雨と蟻と小銃と 38-4


「それは犯人が捕まったところで変わりますか?」
 低くゆったりとした声だったが、小島はぞっとした。新見の表情に変化はない。ただ視線はぐっと握りしめて震える拳を見つめている。
 息を呑んだ。いくらでも綺麗事は吐ける。しかし、そんなうわべだけの答弁など出来なかった。いまの彼の前ではそんなこと口が裂けても言えない。